単に意見が違うというだけで、私たちがいかに簡単にお互いを冒涜者だと非難するかということに、私はどれほど心を痛めていることか。

2013年5月21日

意見の違いだけで、いかに簡単に相手を不信仰だと非難し合うか、私はどれほど心を痛めていることでしょう。意見の相違は宇宙における神の法則の一つであることを、私たちは忘れてしまっています。全能の神はこう言われました。「もしあなたの主が御心ならば、人類を一つの共同体にすることもできたであろう。しかし、彼らは決して相違をなくすことはないだろう。」
世俗的な事柄において君主と意見が合わないからといって、相手が不信心者になったわけではありません。君主や権力者は、預言者(神の祝福と平安あれ)よりも優れているわけではありませんし、教友(神のご満悦あれ)よりも優れているわけでもありません。
使徒がクライシュ族とその同盟国とメディナからの撤退に関する条約を結んだ際、教友たちは使徒に反対しました。しかし、使徒は考えを変え、条約を破棄しました。使徒は、彼らに反対した彼らを異教徒とみなしたのでしょうか?
カリフ・ウマル・ビン・アル=ハッタブに反対した女性がいました。持参金に関して、彼女の反対は正しかったのです。そこでカリフは彼女の意見を考慮し、有名な言葉を残しました。「女性が正しく、ウマルが間違っていた」と。私は彼女を異教徒、偽善者、あるいはその他の侮辱的な言葉で呼ぶべきでしょうか?
神のご加護がありますように、アリーが忠誠を誓った時、彼には反対者がいました。そもそも彼の権威に異議を唱えていた者もいれば、ムアーウィヤ・ビン・アビー・スフヤーンとの仲裁事件のように、彼と意見が異なる者もいました。どちらかのグループが他方を信じていなかったのでしょうか?
これは初代カリフ、アブー・バクル・アル=シッディーク(神のご加護がありますように)が、ムスリムたちからカリフとしての忠誠を誓われた時のことです。それは満足と安心の忠誠でした。彼はカリフの地位に就いた後、初めて民衆に語りかけ、こう言いました。「民衆よ、私は君主として任命されたが、君たちの中で最高の者ではない。もし私が善行を行ったならば、私を支え、もし私が悪行を行ったならば、私を正してください。」
ウマル(神のご加護がありますように)は人々に言いました。「もし私が良い行いをしたら、私を助けてください。もし私が間違った行いをしたら、私を正してください。」モスクの後ろから一人の男が彼に言いました。「もしあなたに何か不正な点があれば、私たちは剣であなたを正します。」ウマルはそれに安心し、幸せになりました。
イスラム教では、世俗的な事柄において支配者に反抗することは容認されており、それには統制と平和的な手段が存在します。しかし、反抗する者を異教徒や偽善者と呼ぶことは、シャリーア(イスラム法)の規定を無視する行為です。神の使徒(彼に神の祝福と平安あれ)はこう述べています。「もし人が兄弟に『異教徒よ』と言ったなら、どちらか一方が罰せられる。もしそれが彼の言った通りならそれでいい。そうでなければ、その報いは彼に返ってくる。」




タマー・バドル少佐 

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